時には記憶もウソをつく

 

自分の記憶していることって、なんとなく100%正しいと信じていたりしませんか?

わたしは心理や脳の勉強をして、記憶がウソをつくことがあると学んだので、知識として頭では理解しているつもりでしたけれど、それでもなお、「自分が記憶していることは100%間違いない!」とどこかで過信し、思いこんでいました。

ですが、それは間違っていたんだ、記憶していたことが間違っていたのかもしれないと感じたことがありました。

 

このブログでも何度か触れていますけれど、わたしは物心ついたころから何とも言えない生きづらさを感じていました。

それは性格によるものもあるでしょうけれど、家庭環境や親戚関係など、周囲からの影響も大きかったと思います。

中でも、わたしがほしいと思っていた愛情を両親から満足いく形で受け取れなかった(と感じていた)ことが、一番大きかったかもしれません。

これが欲しい。
これをやりたい。

毎日の暮らしの中で沸き起こってくる子どもらしい自然な欲求をぶつけても、周囲の顔色をうかがって過ごしていた母親からは、その大多数についてことごとく×をつけられてきました。

望んでもダメと言われる、諦めるしかないケースが繰り返されるうちに、いつしか知らず知らずのうちに望むことすらも諦めて、ただ親が〇をくれそうなものだけを最初から選ぶようになりました。

そうやって表面上は何の問題もないように生活していましたけれど、胸の内には葛藤ばかりを抱えるようになってしまっていたんです。

そんな自分をどうにかしたくて心理学を学んだり、(当初はそれが心を癒す効果をもたらすとは知らずに)整膚を学んでいくうちに、徐々に葛藤の原因が理解できるようになり、楽に生きられるようになってきました。

 

そしてある日、ふと気づいたことがありました。

葛藤が深かった時代、過去を振り返れば「あれも出来なかった、これも反対された、何もかもダメと言われた」と、否定されたことや受け入れてもらえなかったこと、愛してもらえなかったという感情ばかりに意識が向いて、その度に両親を恨みがましく思っていたけれど、

「本当にそうだったの?」と冷静に過去を観察してみると、そんなことばかりではなかったことに突然気づいてしまったのです。

確かに受け入れられなかったことはたくさんあったけれど、実際にはその全てが今思っているほど大きなことだったわけではなかったし、愛情をたくさん注いでもらった場面もたくさんあったんじゃないか?

けれど、あまりにも長いこと辛かったことにばかり意識が向きすぎていて、本当は針ほどの些細なことがらを大木のように大きなものとして記憶を変換してしまっていたのではないか?

あまりにも長いこと、苦しかった記憶ばかりをギュッと見つめ過ぎていて、本当はたくさんあった幸せな記憶すらも忘れかけていただけじゃないか?

そう気づいたんです。

 

記憶にウソをつかせていた原因は、悲劇のヒロインを演じていた自分。

悲しいこと、苦しいことに堪えている自分を心のどこかで憐れんでいたんですね。

悲劇のヒロインという概念は以前から知っていたけれど、自分がそうであることを絶対に認めたくなかった。

その時はまだ、かわいそうな自分に執着があったから、そこにとどまっていたかったから。

 

当時のことをこうして書いていると、どれほど自分の視野が狭かったのかよく分かるし、どれほど自己中心的になっていたのかと穴があったら入りたいくらい恥ずかしいし、すべての責任を押し付けてしまった両親に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

どうしてあのころ、もっと広い視野を持てなかったのだろう?自分のことばかりでなく、人の気持ちを思いやる心の余裕を持てなかったのだろう?前を向けなかったのだろう?と。

でも、あの時期のわたしにはそうするより他になかった、どうしてもそれが必要だったのですね。

そして、これを読んでくださっている方の中に、もしかしたら同じように苦しんでいる人がいらっしゃるとしたら、わたしの経験が何かの突破口になるのかもしれない、そう思って書いています。

昨日ブログに書いた「風穴を開ける」きっかけにしていただけるかな?と。

 

もし今、まだ執着を手放せないとしても、無理に手放す必要はないとわたしは思っています。

かつてのわたしがそうであったように、今はまだその状態が必要なのですから。

そして手放せるタイミングは必ず来るはずだから。

ただ、「自分は執着しているんだ」という意識をもってその状態を続けるのと、全く自覚なく無意識のまま続けているのとでは、全く意味が違います。

意識してとどまることを選択するのであれば、その選択もかけがえのない小さな一歩。

その次の大きな一歩へつながる第一歩なのだということを、ぜひ覚えておいてくださいね。