贖罪=しょくざい=

タイトルの「贖罪(しょくざい)」

最近、何回も頭に浮かぶ言葉です。

・・・難しい言葉ですよね。

聖書に親しんでいらっしゃる方でしたら、なじみのある言葉かもしれません。

わたしは母がクリスチャンだったので、物心ついた頃にはこの言葉に触れていました。

 

=贖罪=

1. 善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。「奉仕活動によって贖罪する」

2. キリスト教用語。神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義。キリスト教とその教義の中心。罪のあがない。

(goo辞書より)

 

 

前々回のブログ『「人生に起こる全ては自分の責任」の真意』の続きのようになってしまいますけれど、

ここ1週間くらいの間に、この言葉が思い浮かぶ場面に何回も出くわすので、どなたか必要としている方がいるかもしれないと感じ、思うことを書くことにしました。

 

 

 

わたしは物心ついたときからずっと、いわれのない罪の意識のようなものにとらわれていました。

「立派な自分にならないと受け容れてもらえない」、「みんなが認めるような素敵な人間にならないとダメ」と、脅迫的に信じていました。

 

誰に言われたわけでもないのに、なぜ?

受け容れてもらえないって、誰に?

 

前々回のブログにも書いたように、両親との関係や育った環境など、そのきっかけとなるような条件は確かにありました。

でも、最終的にその考えの中に居座って、いつまでも「誰も認めてくれない」とか「ちゃんとしないと誰かに責められる」と信じ続けたのは、他の誰でもなくわたし自身だったんですね。

自分を認めないのも、自分を責めるのも、他の誰でもない、自分自身だったんです。

たとえどんなきっかけがあったとしても、そこから抜け出そうとせずに、罪の意識を創り出し続けているのは、自分自身なんです。

そのことが理屈ではなく体で理解できたとき、両親や育った環境への恨みや怒りは全て消えました。

他人へ向いていた怒りは、実は自分自身に向けたものだと分かったんです。

ありのままの自分を認められず、素の自分を丸ごと受け容れることのできない自分自身に向けた怒りだと分かったんです。

 

 

わたしは整膚やリラクセンスを学ぶことによって、そういった目に見えない自分自身のとらわれを、体を通して感じ、知ることができました。

目に見えない葛藤の本当の原因を知り、体で感じ切ることで、問題と向き合い切るきっかけと勇気を持つことができました。

それはとても幸運なことだったと思います。

 

 

わたしが自分自身の体験を通して、今苦しんでいる方々にお伝えできることがあるとすれば、「真正面から自分と向き合う覚悟を決めたら、必ず本来の自分、素の自分と出会うことができる」ということ。

全ての答えは必ず自分自身の中にある、向き合いさえすれば必ず答えは見つかるのですから。

 

 

 

わたしたちは何も意識しなくても、呼吸し、心臓が動き、血液が流れ、内臓が機能し合い、脳が体中に指令を出し、すべての細胞が連携し合って、生きることができています。

何も意識しなくても、です。

「神さま」という存在がいるとすれば、わたしたちは神さまによって充分に生かされているのです。

どんな立派なことができなくても、どんなにみんなから尊敬される人でなくても、人として生かされているのです。

それだけで十分に価値があるのです。

 

もし今の自分そのままでは自分の価値を認められないと思われるときは、どうぞ自分の体に触れてみてください。

温かくやわらかい肌に触れて、皮膚の下で息づく命を感じてみてください。

体はただの入れ物なのではなく、ご自身の命そのものです。

どうぞ体を慈しみ、自分自身を受け容れてくださいね。