整膚とリラクセンス・ボディセラピーを通して、体の手当て+心にも手当て

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ブログ

2017/10/9

 

 

家の前の小路で、
シュウメイギクが花を咲かせています。

華やかさはないけれど、とっても好きな花です。

秋ですね~秋

 

 

先日、久しぶりに高齢者施設へ
施術のボランティアに行ってきました。

感染症対策により来館者を制限していたので、
1カ月半?2カ月?ぶりの訪問でした。

 

時には施設側から「この方をお願いします」と
施術が必要な方を指定されることもありますが、
基本的には「どなたでも」という姿勢なので、
たいていはわたしの方でランダムに選んでいます。

できるだけ皆さんに受けていただけるように
前回施術していない方の中から
選ぶようにしていますけれど、

それでもやはり、
麻痺があって動かせない部分があるとか、
腕が拘縮しているなどの重い症状がある方を
優先的に選んでしまいます。

少しでも体の自由を取り戻して
喜んでいただきたいから。

 

そういった症状の方のほとんどは、
おしゃべりもままならない、
意思を伝えることが困難なことが多いです。

でもね、繊細に、繊細に皮膚を動かして、
わたしが皮膚の下にある体の意思を
ほんの少しでも感じられたな、と感じる時に
ふとお顔を見ると、
目をじっと見開いて、言葉にならない想いを
伝えてくださっていることを感じます。

大きな表情はないんです。

でも、目の奥に何か訴えるものを
ものすごく感じるんですね。

「動いていますね、嬉しいですね」と声をかけると、
首が振れることもないのですけれど、
明らかに「うん、うん」と伝えてくれるんです。

この瞬間の「分かり合えている」という感覚は、
言葉では表現できない、
何とも深い歓びをもたらしてくれます。

生きる、という言葉をかみしめます。

 

 

歩いたり、食事をしたり、仕事をしたり、眠ったり、
友だちとおしゃべりしたり、
怒ったり、泣いたり、笑ったり、

そんな何気ない小さな日常を送ることが
きっと生きるということなのですね。

 

 

 

相手を楽にする寄り添いって?

2017/10/6

 

昨日は久しぶりに、
リラクセンスの練習会に行ってきました。

普段はなかなか施術を受けることはないけれど、
受ける側の感覚を忘れないことは本当に大事。

朝からゆるむ気満々で(笑)出かけていきました。

 

 

このブログでも何度もお伝えしていますが、
リラクセンスが他の施術を大きく違う点が
三つあります。

 

①強い力を使わなくてもゆるめることができる

②施術を行う側も受ける側もともにゆるむことができる

③答えを相手の体に求めることができる

 

この三つのポイントは深く関係しあっています。

答えを相手の体に尋ねる(③)ためには、
最小限の力で触れ(①)なければいけません。

力が強すぎると、触れた結果起こった反応が
自分の力によるものなのか、
相手の体からの反応なのかが分からないから。

そして強い力を使わない(①)から、
施術している側もゆるもことができる(②)んです。

 

この、施術する側もゆるむということは、
相手にゆるんでもらうためには、
実はとても大切な要素なんですね。

人と人は、お互いに影響し合っています。

よく、怒っている人の近くにいると、
心がざわついたり、落ち着かなくなりませんか?

緊張した人のそばにいると、
こちらまで緊張してきませんか?

施術を行うセラピスト自身の体が緊張していると、
受ける側もゆるむことはできません。

相手を良くするために自分の体を壊してしまうのは、
本当はあまりよくないことなんですね。

 

施術する側(セラピスト)と受ける側(クライアント)
双方がゆるんで楽になるセッション、
それがリラクセンス・ボディセラピーです。

 

 

そんなリラクセンスにも他の施術と同じように
理論と技術がありますが、
その二つを支える大切な概念が存在します。

 

在り方

反応

循環

 

施術する側がどのような在り方でいるのか、
それによって、
相手の体に触れるときの触れ方が決まります。

そしてその触れ方に応じて
相手の体から反応が返ってきます。

さらに、その反応に寄り添うことで、
施術する側と受ける側に循環が生まれます。

そうやって循環したものが、
再び施術する側の在り方をつくり上げます。

 

このような概念をしっかりと身につけていないと、
同じ技術と理論を駆使してセッションを行なっても、
形が同じだけで全くの別物になってしまうんです。

 

昨日の練習会では、お互いにセッションし合うことで、
その概念を体でたっぷりと再確認しました。

 

 

本当の意味の寄り添いは
「してあげよう」という意図から生まれるのではなく、
ただただ相手の様子を感じとり、
その反応を見るだけ、感じるだけなのだということが
リラクセンスを行っていると、とてもよく分かります。

なぜなら体の反応として表れるから。

近寄り過ぎて暑苦しく感じさせてしまう、
「もっとしてほしい」時に手を引きすぎてしまう、

これは相手の体の反応を感じるよりも
自分の想いが優先してしまっている証拠。

しっかりと相手の望みを感じ、寄り添うには、
実はこちら側が「してあげたい」を手放して
フラットでいることが必要なんですね。、

 

練習会を終え、帰宅してから午後からの仕事では、
そんな「寄り添い」について、
とても深く考えさせられる場面に出合いました。

 

相手の方の体に、心に、
わたしはどのくらい寄り添えているのだろう?

 

わたしにとって、これは
一生かけて学び続ける命題です。

 

 

今夜の関東地方は冷たい雨になっていて、
秋らしい冷え込みになりそうですね。

皆さま、どうぞ充分に温かくしてお休みくださいねぽかぽか

 

 

体は歴史

2017/10/2

体って一人ひとり全く違います。

 

体そのものが違う。

性格やクセ(体のクセや思いグセ)が違う。

生活習慣によって動かし方が違う。

長い人生で積み重ねてきた体験が違う。

 

その一つひとつは小さな違いでも、
その積み重ねが歴史となって、
触れられたときの反応としては
とても大きな違いとなって表れるんですね。

 

 

ほんの少し触れただけで、
その瞬間に、ギュッとものすごく緊張して
その緊張状態のまま動く人がいます。

本人は動かそうという意識は全くしていなくて
完全に無意識での動きなのですが、
これでもか!というくらい、
ギュッ!と緊張させてしまいます。

 

例えばけがをしてしまった時の衝撃のなごりだったり、

そういったケガが完治しないうちに
無理に体を動かしたために、
体のそこかしこに変な緊張を生んでしまったり、

その緊張をそのままにして何十年も過ごすことで
その緊張した体の使い方が
クセになってしまったとか、

あるいは、とてもショックなことが起こった時の
心の緊張が
ずっと体に残ってしまったとか、

 

きっとこれまで生きてきた中で、
そうやって体を緊張させることが当たり前になり
無意識の部分に染み込んでしまい、
またそうやって体を緊張させることで
数々の問題に対処し、乗り越えてきたのだということが
想像されます。

体にその人の歴史が刻まれているんですね。

 

そんな体を目の前にしたとき助けになるのは
技術や経験より、むしろ
その体とどれだけ対話できるか、
どれだけ体の本音を引き出せるのかということしか
ないんですね。

そして誠意をこめて対話すれば
体はちゃんと答えを教えてくれます。

 

同じ人の体でも、

日々、状態は変わっています。

同じ人の体でも
一度として同じ反応をすることはありません。

そこが、この仕事をしていて
とても面白いところでもありますし、
同時にとても難しいところでもあります。

難しいから面白いのかもしれませんね。

 

体に刻まれたマイナスの歴史があるなら、
それをすっかり塗り替えて、
明日から楽に楽しく過ごしていただくこと。

それが一番うれしいことですね(^∇^)

 

 

一人じゃ学びも成長もできないよね

2017/9/30

最近、誰かとお話しするたびに、すごく大きなことを学ばせてもらっているなと感じます。

ほとんどの場合は、家族だったり友人だったり仲間だったり、近い関係の人から、とても充実した時間を過ごす中での学びですけれど、

時には大きな問題と思えるような出来事や、ちょっと耳が痛い事柄だったりすることもありますけれど、それもとても貴重な気づきにつながったりしています。

 

人は自分一人では何も学ぶことはできないし、成長することもできませんよね。

誰かから嫌な想いをさせられたり、反対にとてもうれしいことをしてもらったりして、自分にとって必要なことを身につけて行くんだなぁと実感します。

本から学ぶこともありますけれど、それもその著者から学んでいるということ。

そう思うと、出会う全ての人、出合う全ての出来事が、とても大切に思えてきます。

そして得たものを、また出会った人との間でお互いに分かち合い、循環させ、お互いに成長し合える・・・

そんな流れの中にいるのだと感じる時、とても幸せだなと感じます。

 

何の役に立とうとがんばらなくても、誰もがそうやって誰かから学び、何かを循環させ、お互いに成長しているのだと思います。

そしてそれを常に実感できることが幸せなのだと思います。

 

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

明日1日の夜、遠隔氣療を行います。
都合により明日は30分遅く22時半より行います。
ご希望くださる方はこちらをお読みいただいた上で、コメント欄にてお知らせください。

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 

 

 

時には記憶もウソをつく

2017/9/27

 

自分の記憶していることって、なんとなく100%正しいと信じていたりしませんか?

わたしは心理や脳の勉強をして、記憶がウソをつくことがあると学んだので、知識として頭では理解しているつもりでしたけれど、それでもなお、「自分が記憶していることは100%間違いない!」とどこかで過信し、思いこんでいました。

ですが、それは間違っていたんだ、記憶していたことが間違っていたのかもしれないと感じたことがありました。

 

このブログでも何度か触れていますけれど、わたしは物心ついたころから何とも言えない生きづらさを感じていました。

それは性格によるものもあるでしょうけれど、家庭環境や親戚関係など、周囲からの影響も大きかったと思います。

中でも、わたしがほしいと思っていた愛情を両親から満足いく形で受け取れなかった(と感じていた)ことが、一番大きかったかもしれません。

これが欲しい。
これをやりたい。

毎日の暮らしの中で沸き起こってくる子どもらしい自然な欲求をぶつけても、周囲の顔色をうかがって過ごしていた母親からは、その大多数についてことごとく×をつけられてきました。

望んでもダメと言われる、諦めるしかないケースが繰り返されるうちに、いつしか知らず知らずのうちに望むことすらも諦めて、ただ親が〇をくれそうなものだけを最初から選ぶようになりました。

そうやって表面上は何の問題もないように生活していましたけれど、胸の内には葛藤ばかりを抱えるようになってしまっていたんです。

そんな自分をどうにかしたくて心理学を学んだり、(当初はそれが心を癒す効果をもたらすとは知らずに)整膚を学んでいくうちに、徐々に葛藤の原因が理解できるようになり、楽に生きられるようになってきました。

 

そしてある日、ふと気づいたことがありました。

葛藤が深かった時代、過去を振り返れば「あれも出来なかった、これも反対された、何もかもダメと言われた」と、否定されたことや受け入れてもらえなかったこと、愛してもらえなかったという感情ばかりに意識が向いて、その度に両親を恨みがましく思っていたけれど、

「本当にそうだったの?」と冷静に過去を観察してみると、そんなことばかりではなかったことに突然気づいてしまったのです。

確かに受け入れられなかったことはたくさんあったけれど、実際にはその全てが今思っているほど大きなことだったわけではなかったし、愛情をたくさん注いでもらった場面もたくさんあったんじゃないか?

けれど、あまりにも長いこと辛かったことにばかり意識が向きすぎていて、本当は針ほどの些細なことがらを大木のように大きなものとして記憶を変換してしまっていたのではないか?

あまりにも長いこと、苦しかった記憶ばかりをギュッと見つめ過ぎていて、本当はたくさんあった幸せな記憶すらも忘れかけていただけじゃないか?

そう気づいたんです。

 

記憶にウソをつかせていた原因は、悲劇のヒロインを演じていた自分。

悲しいこと、苦しいことに堪えている自分を心のどこかで憐れんでいたんですね。

悲劇のヒロインという概念は以前から知っていたけれど、自分がそうであることを絶対に認めたくなかった。

その時はまだ、かわいそうな自分に執着があったから、そこにとどまっていたかったから。

 

当時のことをこうして書いていると、どれほど自分の視野が狭かったのかよく分かるし、どれほど自己中心的になっていたのかと穴があったら入りたいくらい恥ずかしいし、すべての責任を押し付けてしまった両親に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

どうしてあのころ、もっと広い視野を持てなかったのだろう?自分のことばかりでなく、人の気持ちを思いやる心の余裕を持てなかったのだろう?前を向けなかったのだろう?と。

でも、あの時期のわたしにはそうするより他になかった、どうしてもそれが必要だったのですね。

そして、これを読んでくださっている方の中に、もしかしたら同じように苦しんでいる人がいらっしゃるとしたら、わたしの経験が何かの突破口になるのかもしれない、そう思って書いています。

昨日ブログに書いた「風穴を開ける」きっかけにしていただけるかな?と。

 

もし今、まだ執着を手放せないとしても、無理に手放す必要はないとわたしは思っています。

かつてのわたしがそうであったように、今はまだその状態が必要なのですから。

そして手放せるタイミングは必ず来るはずだから。

ただ、「自分は執着しているんだ」という意識をもってその状態を続けるのと、全く自覚なく無意識のまま続けているのとでは、全く意味が違います。

意識してとどまることを選択するのであれば、その選択もかけがえのない小さな一歩。

その次の大きな一歩へつながる第一歩なのだということを、ぜひ覚えておいてくださいね。

 

 

風穴を開ける

2017/9/26

 

生きていると、すべてが停滞してしまっているように感じてしまうことがありますよね。

気持ちも晴れない、体も重い、周囲の状況も煮詰まっている・・・

そんな逃げ場のない、まるで八方ふさがりのように感じる時って、視野がすごく狭くなってしまっていて、周囲のことがよく見えなくなってしまいます。

その結果、自分がまるで世界中で一番不幸な人間のように感じてしまう状況。

きっと誰もが一度は経験したことがあるのではないかと思います。

 

わたし自身、数えきれないくらい何度もそんな経験をしてきました。

そしてその度に、誰かが何気なくいってくれた一言だったり、そっと差し伸べてくれる手だったり、自分のことを気遣ってくれている人の存在に気づいて救われたものでした。

「わたしは一人じゃなかった」

そう思えた時に、少し視野が広がって、自分を取り巻く状況をきちんと見つめることができたような気がします。

その瞬間、フッと気持ちが楽になって、滞っていた空気が流れだしたような気がしたものでした。

風穴が開いたんですね。

 

これからはわたしの番。

苦しくて、苦しくてどうにもならないように思えてしまう状況。

そこにほんの小さくていいから風穴を開けて、新鮮な空気を流してあげられること。

ほんの小さな一歩を踏み出すきっかけを作ること。

ピンチをチャンスに変換できるのだということを知らせること。

それをし続けていけたら、とてもうれしいなと思います。

 

 

父のこと

2017/9/23

今日は亡き父の90回目の誕生日。

昨日、今年初めてキンモクセイの薫りに気づきましたけど、この木は初孫の誕生を祝って植えたもの。

そういえば甥っ子と父は生まれ月が一緒だったんだな・・・などと、改めて思ったりします。

 

昭和一桁生まれの父は、絵にかいたようなザ・昭和のおやじ(笑)

スパルタ式で良く叩かれたし、家から閉め出しを食ったことも何度もありました。

「ダメなものはダメ!」って、よく言われたなぁ。。。

寡黙というほどではなかったけれど、口数はやはり多くはなく、だからとても怖い存在でもありました。

 

仕事は本当に好きだったようで、元々公務員(研究職)だったのですが、後輩でもある友だちが新しく会社を興すことになり、「ぜひ天野さんにも来てほしい」と言われ、定年まで待たずに公務員を辞め、新しい会社に移りました。

定年まで勤めれば楽だっただろうにと思いますけれど、きっとお友だちのためというだけでなく、仕事内容の面でもチャレンジしたかったのではないかと思います。

そのあたりの事情は詳しく聞かなかったけど。。。

新しい会社は片道3時間近くかかる場所にあったので、朝早くに家を出て夜遅く帰ってきて、それでも愚痴ひとつ言うことなく、休日も机に向かって黙々と家で仕事をしていた後ろ姿を思い出します。

 

だからと言って仕事一辺倒だったかというと、そういうわけでもなく(といっても遊びとは無縁の人でしたが)、日曜大工が趣味で、簡単な家の修理をしたり、棚や孫の椅子を作ったりしていたものでした。

また、若い時から水泳(日本泳法)をやっていて、長年逗子海岸で子どもたちに泳ぎを教えていて、その団体のまとめ役もやったりしていました。

それもやはりスパルタで有名でしたが(笑)、水泳を通して地域の子どもたちにたくましく育ってほしい、決してあきらめないことを伝えたかったのかなと思います。

 

こうして振り返ってみると、父親は信念の人だったのだなと思います。

決してすすんで自分のことを語ることはありませんでしたし、そのために誤解されるようなこともずいぶんあったようですけれど、自分が信じることを動かすことは決してありませんでした。

子どもにして見れば、そんな不器用に生きる父親の姿を何となく疎ましく感じたり、もっと楽しく接してくれると良いのに、などと思ったりしていましたし、

「ああいう風にはなりたくない」と、わざと反対の方向へ進もうとしたりと、心の中では反発してばかりでした。

でもこの年になって思い返すと、そういう父の生き方がどれほど素敵なものだったのか、目に見えない大切なことをどれほど教えてもらっていたのか、ようやく気づけるようになりました。

父は生涯を通して、自分を諦めず信じ続けること、信念を持ち続けることの意味を教えてくれていたような気がします。

 

23年前に父を亡くした時は、癌だったので覚悟をしていたこともあり、それほど悲しいとか辛いという感情は起こらず、「仕方ない」と、ある意味冷静に受け止めていたような気がします。

ところが20年以上経った今になって、もっと父と一緒にいたかった、もっとたくさん話したかった、もっと父のことを知りたかったと思うようになりました。

わたしは父のことを全然知らなかったな・・・と。

なので最近の方がよく父と話すようになりました(笑)

父と向き合う今のわたしは、子どもらしくいられなかった半世紀近く前の子どもの頃のわたしより、ずっと子どもっぽいな~と感じます(笑)

いつも守っていてね、応援していてね。

そんな素直な言葉が口をつくようになりました。

こんな年になっても、いつまでも親は親、なんですね。

ありがたくて涙が出ます涙

 

わたしの中では葛藤が多かった親との関係ですけれど、こんな風にただただ感謝だけで振り返ることができる日が来るなんて、長いこと思ってもいませんでした。

自分自身とちゃんと向き合って、自分の視点をちょっとだけ変えて視野を広く持つことができれば、自ずと過去の記憶の意味合いも変わってくる。

ありがたいことですね。

 

父がずっと示し続けてくれた信念を持って生きる姿は、これからのわたしを支えてくれる礎です。

父のもとに生まれてきたことへ感謝するばかりの一日でした。

 

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

明日24日の22時より30分間、遠隔氣療を行います。
ご希望くださる方はこちらをお読みいただいた上で、コメント欄にてお知らせください。

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 

 

 

Amaze Yourself!

2017/9/21

突然ですが、わたくし、カーブスで筋トレ始めました~!

ちょっと前から、「体がモッサリしてきたな~、キレがなくなってきたな~、筋トレしたいな~」と思っていたところへ、偶然にも友人から無料体験のお誘いが!

正直言うと、カーブスは全く眼中になかったのですけれど(カーブスさん、ごめんなさい💦)、これもタイミング!ねと思って行ってみたところ、まんまとご入会(笑)

5回ほど通い、マシンの使い方にも慣れてきて、負荷のかけ方も教わってきました。

目指すは、70代でもジーパンをカッコよくはける、動きにキレのある女性!

ワクワク、ちょっと楽しみになってきました♪

 

 

そのカーブスのスタッフの方は皆さん、オリジナルのTシャツを身につけていらっしゃるのですけれど、何種類かあるうちの1枚をスタッフの方が着ていらっしゃって、そのそのTシャツに書いてあった言葉が、すごく良いなぁ~と思ったんです。

 

Amaze yourself = 自分自身に驚く

 

これ、素敵じゃないですか?

変化していく自分に気づき驚けること。
今まで知らなかった自分自身に出会い、驚けること。

それはとてつもなくワクワクする素敵なことですよね!

 

そして思いました。

わたし自身が自分の変化に驚くだけでなく、出会う全ての人に対して、わたし自身がそんなワクワクするような変化を起こすことができたら、本当に幸せ!だな~って(#^.^#)

 

Amaze Yourself!

 

みんなでワクワクしながら、自分の中の知らない自分を開拓していきましょ!

 

 

最後に全くの余談ですが、、、

最近よく言われるのですけれど、わたしはどうやら筋トレ派ではなく、ヨガ派に見えるらしいです。

それも大ベテラン、インストラクタークラスだとか(笑)

そんなにストイックに見えるってことかなぁ~

ヨガ、一度もやったことないのにね(笑)

 

 

 

他人はすごい人に見えるのね

2017/9/18

 

昨晩から今日にかけての台風、皆さまの地方は大丈夫でしたか?

被害が出た地域もあったようですね汗

どうか一日も早く普段の生活に戻られますように!

 

 

敬老の日の今日は、高校時代の友人たちと数カ月ぶりの女子会へ。

久しぶりに会ってもすぐに打ち解けられるのは、昔からの友人関係だからこそでしょうか?

一緒に過ごす時間はとてもリラックスして、たくさんしゃべってたくさん笑いました(#^.^#)

 

話していて分かったのですけれど、主婦だったり会社員だったりする友人たちからしてみると、自営という形で働いているわたしは、「本当にすごいよね~!」と感じるらしいです。

でもわたしから見れば、ずっと一つの職場で経験を積み重ねていたり、家族のために育児や家事を全うしている彼女たちの方が、ずっとずっとすごいと感じています。

ほとんどの女性が当たり前のように結婚して、当たり前のように子どもを生んで育てて、ということをこなしていて、

そりゃ時には放り出したくなることもあるでしょうし、現実逃避をしたくなることもあると思いますけれど、

それでも結局は投げ出すことなく、人ひとりを(あるいは二人とか三人とか)立派に育てあげている姿というのは、その経験のないわたしからして見れば、この上なくすごいこと!

母親業を経験している人にはどうやっても敵わない。

それなのに彼女たちからすると、わたしの方がすごいことをしているように見えるなんて。

なんで?信じられない!(゚o゚〃)

でもきっと人って、自分が経験していないことをしている人を見ると、すごい!って思うものなのですね。

そして他人からどんなに「すごい!」と思われていても、本人にしてみれば、ただ自分の前にあることを当たり前のこととして、淡々と続けてきているだけなのかもしれませんね。

 

他人のことがすごい人に見えて、それに引き換え自分は・・・と思えてしまう時、もしかしたらその人も同じように、あなたのことを「すごいなぁ!」と思っているのかもしれません。

本人はただ淡々と何のドラマもない日々を当たり前のように過ごしているだけ・・・と思っているかもしれませんけれど、

どんな経験であれ、その経験はその人だけのもの。

どんなに似たような経験をしていても、全く同じ経験をしている人は一人としていないはず。

人から「すごいなぁ」と思われるようなことって、そのただ淡々と当たり前に積み重ねている日々の中にあるのですね。

 

他人もすごいけど自分もすごい!みんなすごい!んですよね。

 

 

役に立つってこういうことだと思う

2017/9/15

今日の夕方は出張整膚。

先日お父さまを看取られた方、気が張っていたのがゆるんでしまったのか、体調を崩されたようでした。

ポツリポツリお話ししながらゆっくり体をゆるめていただいて、心も体も流れが良くなられたようで、お顔も明るくなられました。

 

施術後に今の心境をお話ししてくださったのですけれど、その中でこんなことをおっしゃっていました。

「父があと少しと分かってから、『父がいなくなったたらわたしどうするんだろう?これから仕事をすると言っても、これまで何もやっていなくて、今さら何もできないし、何の役にも立たないんだなぁ』って思っちゃったんだよね」

この気持ち、わたしもとてもよく分かったし、同じように感じられたことがある人も少なくないんじゃないかな?って思います。

 

わたし自身のことを言えば、結婚もしていないし子どももいない。

時々、「わたしって誰の役に立っているんだろう?」と思うことがありました。

大きな仕事をしている人を見ては、たくさんの人たちの役に立って、たくさんの人たちに喜ばれている人の姿を見ては、とてもうらやましく思い、「それに引き換えわたしは・・・」などと思ったものです。

でも、人の役に立つということは、そういう目に見えて分かりやすいことばかりではないんだと心底納得できるようになったのは、ここ数年のことでしょうか。

 

例えば、どんな人でも買い物はしますよね?

大きなスーパーであれ、個人経営の店舗であれ、品物と引き換えに代金を支払いますね。

その代金の行方を考えられたことはありますか?

それは店舗の経営を続けていくために使われたり、従業員やその家族の生活を支えるためのお給料の一部となっていくわけです。

買い物をするというごくごく日常的な行為でも、その店に関わる人たちの命を支える役に立っているんですね。

 

また時には、とてもお気に入りの飲食店があって、食事の代金を支払うだけでなく、「美味しかったよ、ありがとう」と、お礼まで言うことはありませんか?

その言葉は、お店の人にとってみれば、ある意味ではお金よりもうれしいことだったりします。

「ありがとう」と言われることは、その人の仕事を認め喜んでいただけたという証、その仕事を続けていくうえでの大きなエネルギーになるのですから。

 

またまたわたしの話になってしまいますが、料金が発生する仕事の場面だけでなく、ボランティアで訪れる施設の方々からも、たくさんの幸せをいただきます。

施術させていただいた方が涙を流さんばかりに喜んでくださって(中には本当に泣かれる方もいらっしゃいます)、「ありがとう、ありがとう」と何度も言ってくださることがよくあります。

その方にしてみれば、わたしが一方的に与えてくれる(と思っていらっしゃる)ことへのお礼だと思うのですけれど、わたしから見れば、そうやって喜んでいただくことは、わたし一人では決して叶わないこと。

だってその方がいてくださるからこそ、喜んでいただく喜びや幸せを感じることができるのですから。

その方はただそこにいてくださるだけ、ほんのひと時わたしと関わってくださっただけ、ただそれだけでこれほどまでにわたしを幸せな気持ちにしてくださるんです。

どうして役に立っていないなんて言えるでしょうか?

 

人は生きているだけで誰かの役に立っている

この言葉は決してきれいごとではありません。

どんなに「自分は一人ぼっちだ」と思っても、誰かの支えなしには生きていられないのと同じように、誰かの役に立たずに生きられる人など、一人もいないのだと思います。

ただ、心がギュッとしてしまっているとそれに気づくことができないだけ。

そんな時は息をゆっくり吐いて胸を柔らかくして、目の前の人、そして目に見えない誰かを自分が支えている、ということに気づいてくださいね。